2014年4月22日火曜日

冷血

高村薫の新作。2013年8月8日に予約したときは263番目でした。結構待ちましたが今日読了。

出だしから高村薫の文章ですね。ちょっと漢字が少なくなったかな、やわらかくなったような印象がありますが、まぎれもなく高村薫。
しかし本作は描写の克明、詳細さが際立ってます。何かに取り付かれたような細部の細かさだと思います。ちょっと間違うと冗長ともなりかねない描写ですけど、ぐいぐい読ませるのはやはり作者の筆の力。読んでて気持ち良い。藤原伊織を思い出しました。谷崎とか太宰と比べると高村の文章は硬くて機能性が優先されていて、文学の香りはあんまりしないけど、私は大好きです。

内容的には「太陽を曳く馬」がやや難解で、高村さんどうしちゃったんですか、という感じだっただけに心配でしたが、本作は普通にクライム系の読み物で、それなりに年齢を重ねた合田さんの登場もうれしい。どこか「照柿」と似てるように思います。照柿の延長上に、さらにパワーアップして本作があると思う。
しかし全体通して読むと、クライム系の読み物、では片付けられない作品でした。高村さんは単純なミステリーにはもう興味が無いんですね。

人間の行動に理由を見出すことはどこまで可能なのかという問。
生きるとは何かという問。
人が人を裁くことの意味に対する問。

いろんなことを問いかける物語が本作なのかなという感想です。

人間の行動に理由を見出すことはどこまで可能なのか
最近仕事で部下との関係で結構悩んでます。私から見ると虚言癖というか、困るととにかく嘘で固めた言い訳をする部下がいるのです。
私が全く理解に苦しむのは、何故直ぐにバレるウソをつくのかということです。何度もきちんと話しあおうと思うのですが踏み切れないのは、おそらく本人に嘘をついているという意識はないだろうからです。そういう相手に嘘をとがめても空回りだと思うし、決して良い関係にはならないと思うからです。
多分多分本人に結果として「事実と違う」ことを口に出す理由をたずねても答えは帰ってこないのではないか、彼自身理由はわからないのではないかと思うのです。わかっていたら嘘なんてつかないのではと。
つまり自分の行動だからといって必ずしもその理由を自分が理解しているとは限らないということ。人間の行動にはそういう部分があるのだということ。この小説を読むとそれがいやというほど考えさせられました。

生きるとは何か
 この小説の圧巻はラストにかけて脳に障害を持った幼児が雄一郎を訪ねてくる場面だと思いました。痛さに泣き叫ぶ幼児から「それでも生きよ」というメッセージを受け取る雄一郎。そのあとで手紙を通して語られる戸田のことば「子供を二人も殺した私ですが、生きよ、生きよという声がきこえるのです」。
生きることの大変さは死ぬことの比ではない、作者の言うとおりなんでしょう。うっつときました。

人が人を裁くことの意味
本作を合田の視点で書いた理由のような気がします。普通の警察官なら考えてはいけないことを考えてしまう合田。警察や検察が行っていることは正しいのか、ということについて疑問を抱かざるを得ない人です。
明確な理由も無く人を殺した男を、法の名の下に殺す国家。しかし法の理屈が正しいと誰が保証するのだろう。「冷血」とはもしかしたら死刑制度のことなのかも??

この小説はたくさんのことが詰まっていて、「こんな小説」といった説明が難しく感じます。そういったいろんなものを犯罪小説と言うひとつの枠組みにつめて、機能美にあふれた文章で織り込んだものを読者に投げつけてきたのが高村薫、ということでしょう。

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