2016年7月15日金曜日

キャッチャー・イン・ザ・ライ


ライ麦は学生の時読んで以来何度も読み返してきたし、オリジナルの英語版も読んだ
春樹さんの訳が出たときはすぐに読もうと思っていたんだけど、図書館でなかなか借りれなくて忘れている内に新書版も出てたんですね

春樹さんの翻訳物はアーヴィングやオブライエンを昔読んだけど、チャンドラーやフィッツジェラルド、カポーティーも数年前読んだ
今回調べたらサリンジャーではライ麦の他にフラニーも訳してるんだね
いずれそっちも読んでみたい

何度も読んだ本なので、内容は完全に覚えていて、春樹さんの訳を楽しむだけのつもりだったけど、読んでみるとほとんど覚えていなかったことに少し驚いた
いろんな登場人物達がとりとめもなく登場して無駄話を続けていく話だったんだなあ

楽しく話してるときに宗教の話を持ち出されると、駄目っていうわけではないけどちょっと話が止まってしまう、そういうのはいやだよね、そういう事がたくさん書かれてる
自分でも生きていく上ではそういうことも必要と、理解はしていてもやっぱり抵抗はあって、そういう上手く大人になれない部分の話が詰まってる

しかし主人公は要するにただの子供なんですね、それ以上でも以下でもない
こんな小説がどうして世界中で読まれていたんだろう
何よりも私はどうして何度もこの小説を読んできたんだろう???



サリンジャーはどうしてこんな話が書けたのか
サリンジャーは1919年の生まれで、ライ麦は1950年の作品らしい、30歳の時の作品って事になる。
その年でこんな話を書けたって事は???
その後の隠遁生活の噂も考えると、サリンジャーの精神状態って普通の人とはやっぱり違ってたんだろうなあ

結論としては楽しめなかった
野崎さんの訳だったら楽しめたんだろうか?
期待が大きかっただけに残念
多分私の側の問題であろう事が大きく残念

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